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サッカー選手の育て方

はじめに

親として子どもにこうなって欲しいと思うことは色々あります。私の長男はプロサッカー選手になりました。そのことは勿論本人の希望そして夢でありました が、正直私の夢でもありました。分野は違っても子どもの夢が叶えられる為に親はいったい何を、どのようなスタンスでしてあげればいいのでしょうか。私のし た「おやじの実践(サッカー編」を恥ずかしながら振り返り、その中に親としてのかかわりの共通の何かを見出していただけたらと思っています。 少しづつ連 載加筆していきます。

願いを持とう!

私の場合は男の子が生まれたときに、特にサッカー選手になって欲しいと思ったわけではありません。生まれた時にはまず無事かということを思っただけです ね。ブラジル人は男の子の出産祝いにはサッカーボールを贈るのだそうですが、日本人の私はそこまでは思いませんでした。でも私のサッカー仲間の知り合いに はブラジル流の方もたくさんおります。親が自分の子の未来を勝手に思い描くのは悪い事ではありません。子育ては希望、夢ですから。自然のことだと思いま す。親の願いを持って命名してもよいと思います。実際に翼や、秀人、修人(しゅーと)なんて名前のサッカー選手はたくさんいますから。栃木SCの鈴木修人 選手というのも身近にいますね。
子どもの未来の姿を思い浮かべ夫婦でこんな子どもになって欲しいなんて考えることはとても大事なことだと思います。つまり親は子に対して願いをもちましょう!

幼児期の環境

息子の育った環境は身体的発達にとってはよかったと思います。その頃の家は廊下が長かったので、端から端までよく這い這いをしていました。板の間ですから 適度に滑るので這い這いしやすかったのでしょう。腰を上げて猛烈なスピードで動いていました。歩けるようになるとひとりで裸足で幼稚園の庭に行っていまし た。2歳の頃には高い遊具にもよく乗っていました。幼稚園の先生から危なくて見ていられないと言われましたが、「怪我したら親の責任だからと心配するな」 と言ったら、「他の子が危ないですよ」と言われたっけ。ほとんど裸足で遊ぶものだから足の裏は黒光りしていました。外からの上がり口にバケツと雑巾が常に 置いてあり、猫と違い一応それで洗って部屋に上がってきました。大人の目が程よくあり、いろいろな体の部分を使う遊具があり、何しろお兄ちゃんたちがいっ ぱいいた。この放牧のような生活環境で体を十分に動かし過ごせた事は運動選手になるためにはよかったと思います。

いろいろな動きをさせる

小さい頃はいろいろな動きをさせましょう。サッカーだからキックから教えるというのはだめです。高いところから飛び降りる。一本橋を渡る。ボールを投げ る、取る。前回り、後ろ回り。縄跳び、鬼ごっこ。全ての多様な動きを遊びでしましょう。幼児期にどれだけ外で遊んだかが決め手になると思います。特に野球 は大事な気がしますね。キャッチボールが出来ないサッカーをしている子がこの頃たくさんいます。ボール投げをしていないのでヘディングが全く出来ない。つ まりボールの落下点がわからないのです。その点、息子は今幼稚園のそばで和菓子店をしている扇屋さん親子とよく野球をしていました。あちらは親子で野球で して、それによく誘ってもらっていました。これも良かったことです。親子でキャッチボールという昭和の景色が今少ないがこれをして下さい。余談ですがたぶ んイチローはスーパーなサッカー選手にもなれたはずです

最初のボールは

子どもに与える最初のボールは柔らかく軽いものがいいでしょう。スポンジボールとかビーチボールで良いと思います。硬くて重いのはだめです。そのボールで お父さんと投げて獲る。置いて蹴る。転がして蹴る。なんて遊びをします。フットボールって根源的にボールの獲りっこゲームですから、お父さんが持ってい て、そのボールを獲る遊びをしましょう。大人が本気ではだめだが簡単に獲られないことがポイントです。そして子どもに獲られたらまじめに悔しがってくださ い。

団子サッカーをさせよ

サッカー選手の最高のプレーは11人抜きのゴールです。パスなんてしないで自分でゴールに入れる選手が最高です!だから小学校の低学年くらいまではボール のあるところに遮二無二向かっていくべきなのです。いや可能ならばずっとそのスタイルで行って欲しいわけです。つまり団子サッカーは闘志溢れるプレーの原 型です。それなのに離れろ!とかフォーメーションを教えろなんていう素人さんの親父がよくいます。ボールに向かう気持ちを大事にしましょう。「いけ!い け!お前が入れろ!!!」とだけ言っていればいいのです。余計な事を言わない事が大事です。でもそれをしているうちに、ちょっと離れた方が良い場合もある ことに気付きます。だって前に人がいない方がドリブルはしやすいのですから。この自分で気付くということが大切ですね。気づいたときにはその事を褒めてあ げましょう。しかしあくまでフットボールはボールの獲りっこであることを忘れてはなりません。闘志が一番だと思います。ボールに向かって行く選手に育てな くてはなりません。

ボールを離さないことを覚える

小学校の中学年になったらボールを離さないことがいかに有利か気づかせましょう。蹴ればボールは自分から離れます。つまり相手のものになってしまいます。 だからボーンと大きく蹴らないで持っていくことを覚えさせます。その為にはテクニックとして足の裏で押さえることが有効なことを教えましょう。サッカーだ けでなく運動の場合、教えるとは「やってみせる」ことです。やって見せれば大概わかります。この 蹴る=離す から 押さえる=離さない の両方がわかっ たときにサッカーは面白くなります。キックからキープへと広がることが大切です。

両方の足が使えるか

小学生になるとリフティングを覚えます。リフティングとは足や膝でボールを落とさずにつくことです。呑竜FCでは1年生は10回、6年生で60回を目標に おいていましたが子ども達はすぐにクリアしてしまいます。「お父さん10回出来たよ」と報告にきたらまず「凄いな」と褒めてください。そして利き足でない 方でも挑戦させてください。逆の足(利き足でない方)は半分の目標でもいいでしょう。要はこの時期の子どもには簡単に両方使えるようになりますからトライ させたいのです。将来選手になったとき両足が使えればプレーの幅が広がりますし、ポジションの幅も多様になります。また、得意な蹴り方(インステップ・ キック)が上手くなったらインサイド・キックでも試みさせてください。要は常にちょっと難しいなという課題を与え続けることです。勿論励ま しながら続けさせてください。息子は両方の足で蹴れると思います。2009年の水戸戦で右足で蹴ったボールがGKに当たり跳ね返り、間髪いれずに左足で ゴールに押し込んだ場面がありましたが、あれは小学校のときのトレーニングの成果だと私は思っています(笑)。

姿勢と視線

小学校時代においては将来使うほとんどのサッカーの技術をマスターすることが必要でしょう。そして出来ると思います。その時期だからこそゴールデン・エイ ジと言われたりもします。この技術と共に小学生時代にはサッカーをするときの「よい癖」を付けたいと思っています。それって「きょろきょろする」という癖 です。かつて中田英寿という選手がいました。彼はよく周りを見ていました。始終クビを振っていました。サッカーってゴルフやボーリングと違って相手がいま す。相手のいないスポーツでは自分に集中していれば良いのですが、サッカーは味方と敵のからみの中で自分の最適なプレーを選択するスポーツです。ですから 常に味方と敵の位置関係を見極めることが求められます。団子サッカーをしていた時代はそれは必要ありませんでした。むしろそれでいいのでした。が次のス テージからは周りを見ることが必要となってきます。
(中学へと続く)

トレセンについて

小学校高学年よりトレセンという制度が日本サッカー協会にはあります。目的の1つは上手な子を全国津々浦々から見出すためのシステムです。今どのようなや り方で行っているか詳細は間違うといけないのでここでは控えますが、このトレセンには注意が必要です。注意というのも変ですがトレセンに選ばれたために サッカーをやめてしまった子もいるのです。ナショナルト・レセンに選ばれると 召集の最初に「勘違いしないで」と言われるのだそうです。つまりこれに選ば れても将来の日本代表なんてものではない。だからこれからも地道に努力しなさいと言われるのだそうです。特に親にはきつく言っておかないといけないようで す。まあ、外部から良い選手とお墨付きがもらえるのですから勿論喜んでいいのですが、よい選手は山ほどいるので有頂天にならないことが大切でしょう。やめ てしまった子は、その後伸び悩んだときにトレセンに選ばれた当時の自分とのギャップに苦しんでしまうのです。特に小、中学校時代は成長の早い比較的体格の よい大きな選手が選ばれがちです。体の成長は個人差がありますから、その後他の子が大きくなりいろいろな面で抜かれたときなどにこの事が起こります。トレ センに選ばれたことは喜んでもいいですが、天狗にならないこと。そして選ばれなかったことくらいでくよくよしないことです。

プロの指導

小学校時代は呑竜FCでは私、そして齋藤コーチがすでに述べたようなポイントを重視し指導に携わった。その頃、佐野サッカー協会では指導者の研修と子ども 達への直接のコーチングをプロコーチを招聘して行う「こどもの街サッカー教室」を開始し始めた。このサッカー教室は年間10回、佐野の子ども達4,5,6 年生を集めての合同教室であった。最初のコーチはマリノスの池田誠剛氏だ。池田氏は現在韓国ユース代表のコーチを務めている。なんと今韓国の若年層の強化 を任されている日本人にその頃の小学生は教えてもらったのである。街のサッカーオジサンが昔のやり方で教えるのではないそのコーチングに目から鱗であった ことを良く覚えている。その後のコーチも超大物であった。日本代表の主将、前田秀樹氏である。日本サッカーの谷間の時期に代表を支えたガッツあふれる方で ある。2003年からは水戸の監督をつとめたが、サッカー解説者としても有名。あの「ドーハの悲劇」の解説はあまりに有名である。前田さんは7年間くらい 佐野に来てくれていたので、公私にわたる交際を今も続けている。湘南時代の解説が前田さんで息子が途中出場したとき「小林選手は小学校のときから指導して いました」と言っていただいた。
さて中学になって城東中に進学し中学の部活に入る。顧問の関口先生は園児の関口優輝君のお父さん。そして岸さん(事務の先生)にお世話になる。この2人私 から見ると剛と柔のよいコンビで精神的に支えていただいた。お二人とも今も息子のことを気に掛けていただきありがたい限りだ。
さて当時小山にベルディー小山という小、中学生のサッカースクールができた。東京ベルディーの系列のプロコーチが教えてくれていた。私はそこのコーチの楠 瀬氏に佐野でも同じようにスクールを開催してもらえないか掛け合った。ちなみに楠瀬コーチは現在東京ベルディーのユース監督で、ユースチームを日本一にし ている。この練習会は現在のサッカー場で行われ、佐野の中学生が20人くらい週に1回通って、中学時代の基礎練習を繰り広げた
中学時代は基本の個人・グループ戦術を学ぶ時代であるとも言われているが、正直そのことはこの練習会では十分ではなかったと思う。しかしその分どこに行っても困らないサッカー基本技術の獲得はできたのではないかと楠瀬コーチには感謝している。

高校への進学

中学時代は小山ベルディーの楠瀬コーチ、石田コーチに指導をしてもらったことは話したが、片原コーチのはたした役割も大きい。片原コーチは呑竜FCで幼児 と小学生のコーチをする傍ら、中学生のスクールを引き継いだ。片原コーチは広島出身で高校卒業後ブラジルに単身渡り、プロチームに所属した経験の持ち主で ポルトガル語はぺらぺらだ。縁あって佐野にたどり着いた。技術面は勿論だが彼はサッカー選手のメンタリティーを育てる点での指導力がすばらしいと思う。怪 我やレギュラーになれないそんな子どもの心をサポートしながら励ますことができる兄貴のような存在である。このような親子でも師弟でもない、いわゆる斜め の関係性は重要である。息子が前橋育英高校を選んだのも彼のアドバイスによるところが大だと思う。さてその育英高校の監督は山田耕介氏。日本高校サッカー 界の重鎮と言ってもいい。氏が育てたJリーガーは国見高校の小峰監督と1,2を争う数だ。数が多いのはどういう理由なのか。考えられるのは 1、才能ある よい選手が集まる。2、トレーニングの環境と内容がよい。3、選手間の切磋琢磨がある。4、大会で勝ち抜けるため多くの人の目に触れる。5、代表などに推 薦されるチャンスが多い。と思われる。特に最初の3つは高校(ユース)時代のサッカー環境として大切なことだと思います。自分を信じて、諦めないで努力で きる子ならレベルの高い集団(チーム)を目指すことが必要です。

高校以降のみちすじ

高校年代には2つの選択肢があります。高校のチームに所属するか、ユースクラブに属するかです。佐野から通える選手権出場経験のある高校は、まず佐野日大 高校くらいです。矢板中央高校は少し遠いでしょう。伊勢崎商業高校、そして前橋育英高校には寮があります。ユースだと栃木SCにもユースはあります。(な いとJリーグに加盟できないからです)。少し遠いですがレッズ、大宮、草津にもユースチームはあります。これらのJの下部チームにはセレクションがありま すが、高校ならば入学試験を突破すれば原則、サッカー部には入れるでしょう。前橋育英高校は部員数も100人くらいいました。名門高校のサッカー部はだい たいそのくらいいるようです、そこから25人くらいがトップチームの選手で11人が先発ですから難関だと思います。サッカー解説者のセルジオ越後氏はこう した強豪高に選手が偏って集まるのは問題だと言っています。他のチームならレギュラークラスの力量の子がベンチにも入れず貴重な公式戦の経験をつめないか らです。一考に価することだと思います。また強豪高には選手が集まってくるだけでなく推薦・特待制度もあり、中学時代の実績で選手を集めます。ユースチー ムは育成を目的にします。といってもJリーグの下部チームなどではユースからトップチームに上がる子はほんの数人です。Jの下部組織にいるからとプロにな れるわけではありません。日本の場合プロになる道として大学のサッカー部に所属してプロ契約するケースが増えてきました。長友選手は明治大学に所属してい ました。ただしこれも比較的レベルの高い関東1部リーグでも各チーム数人というところでしょう。しかし大学チームは社会人としてのマナーや気構えをしっか り叩き込まれ、サッカーを離れても一人間としての確立を目指す指導者が多く、人間的成長の場となっています。
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